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〒758-0074 山口県萩市平古町75
日本海に面した、萩の小畑地区の港の入口あたりにあった遺跡の発掘跡地。
ペリーの黒船が来航した嘉永6年(1853)、幕府は禁止令を解禁した。以前より異国の脅威を唱えていた萩の松陰門下(桂小五郎ら)の建白を受け、藩主敬親公は洋式軍艦の建造を許可。
当時、伊豆半島の戸田村で、津波で沈没したロシア船を再建しようと、ロシア人海軍将校のプチャーチンが地元の船大工を使って西洋式木造帆船を建造していました。これが日本初の洋式軍艦の建造で、萩藩はここに船大工らを派遣しロシア洋式の技術を学ばせ、安政3年(1856)恵美須ヶ鼻に造船所を建設します。萩初の洋式軍艦「丙辰丸」を建造することになる。
その後、万延元年(1860)に、長崎海軍伝習所でオランダ人教官が教えた技術が用いられた2隻目の西洋式帆船「庚申丸」が進水します。
この二つ様式の軍艦が同じ場所建造されたことは初めてで、その遺構が確認できたことも貴重である。
また、ここで使用された、鮒釘や他の鉄製品がこれより10キロ程度北にある奈古港に、大板山たたら製鉄跡から山中を、馬で運ばれたことが解っている。奈古港には、原料となる砂鉄が、隣の島根より船で運ばれ、大板山たたら製鉄跡で製鉄され、この造船所にはこばれた。ここより数百メートルの丘に萩反射炉が現存する。
丙辰丸は安政3年(1856)12月13日に浸水した。その年の干支にちなんで丙辰丸と命名された。
ロシヤ洋式の軍艦で2本マストを持ち、帆を縦に張ってあるのが特徴です。
(全長25m、排水量47t)
庚申丸は萩藩2隻めの西洋式帆走軍艦で、先の丙辰丸とは異なりオランダ様式の帆船で、
バーク型で3本のマストを有し、帆はマストに対し横に張られていた。全長43m、排水量(?)
丙辰丸の約2倍近い大きさと思われる。万延元年(1860)浸水、干支にちなんでこの名がつけられた。
文久3年(1863)5月に下関海峡において、アメリカ船を砲撃、撃退するも翌月、反撃を受け沈没した。